八尋寛司のプライベートルーム
「人生の大きな流れ」
    
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  ■第一話■
 『私がこの世に存在するのは、ストレプトマイシンのお陰です。』
 

 

 私事で恐縮ですが、安泰な生活をおくれる大手電気メーカーの研究開発職を辞して、独立し会社を創業した経緯を少しお話し申し上げることで、これから社会に出ようとしておられる若い方々や起業を計画されておられる方々へのご参考になればと思いまして、何話かに分けてご紹介させて頂きたいと存知ます。   


 最初にお話し申し上げたい事と致しまして、両親の病のこと、そして私がこの世に生を受けて生まれて来た背景を、第一話としてお話し申し上げようと思います。

 私の両親は、H20年1月現在で父が83歳(大正13年生まれ)、母が80歳(昭和3年生まれ)で、二人ともすこぶる元気です。
 二人は共に20歳代で当時流行し、その治療方法や治療薬が全く無い肺結核を患ってしまい、福岡県久留米市にございました国立療養所にて死を待つ人達だけが隔離収容された病院に入院していました。
 肺結核は空気感染することから、その患者が出た家の前を多くの人達がハンカチで口を押さえ、息を止めて通り過ぎるような状況だったそうです。

  この二人が丁度同じ時期に同じ病院へ入院して、何度も洗面器一杯の吐血をしたり、「死にたくないよ!」と言いながら亡くなって行く病室の隣人達を何人も見送って行ったそうです。
 当然、二人とも、もう助からないだろうとの覚悟をしていたようですし、家族ももう無理だろうと思っていたそうです。何しろ、医者も手の施しようが全く無かったのですから。
 それでも、気胸という胸から大きな管を直接肺へ挿入して空気を送る治療や、蛇の生き血が良いとの民間療法からいやいやながらその血を飲んだり、八方に手を尽くしていたそうですが、いずれも効果は無かったらしいです。
 ところが、そこに救世主が突如として現れたのです。それは、『ストレプトマイシン』という新しい抗生物質でした。
  母方の親戚には医者ばかりの一族がおられて、ここからこの新薬がアメリカでは結核に効くらしい、との情報が母方の家族へもたらされました。それを聞いた母の父親、つまり小生の祖父が何としてでもその新薬を手に入れて母の命を助けたいとの強い思いから、当時福岡の板付空港に在ったアメリカ軍からの闇ルートを使って、相当の資産売却して1クール分を購入し手に入れたそうです。母によると、当時は1本が約千円したそうで、1クール10本分で1万円以上はしたとのこと。今の価格では、数百万円といったところでしょうか。
 その新薬を祖父は、何と担当医に黙って知り合いの看護婦さんへ裏金を渡して注射してもらったらしく、投与方法は例の医者一家の一人に手ほどきしてもらったそうです。
 何という思いきったことをしたものでしょう。その勇気と無法さには、良し悪しは別としてただ呆れるばかりです。
 でも、そのお陰で母はみるみる元気になり、レントゲンでの病巣も一気に縮小して行ったそうですが、少し経過した時点で一部再発したので、胸郭成形手術を受けて肋骨を数本切断して患部を除去して、やっと完治しています。
 私が子供の頃は、父からは「お母さんは、昔刀で背中を切られたんだよ」と聞かされて、不思議に思っていましたが、母の背中は切除手術した片方だけがへこんでいます。

 一方、父の方は公務員で休職していて保険が利いたお陰で、担当医から優先的に安価に新薬を処方して貰い、やはり1クールを投与してもらい劇的に治癒したそうです。
 当時は、ストレプトマイシンと併用してパスという薬も使っていたとのこと。
 父の話によると、それまでは食事が辛くて、何か砂を噛むような思いでやっと食事をして、何とか栄養を取っていたそうですが、ストレプトマイシンを投与後には、こんなにも食事が美味しいのかと思えるほど、食欲と生きる意欲が湧いて来たとのことです。
 この薬はすごい!と本当に実感し、命が助かるかも知れないとの期待と感激で心が一杯になって、涙が出て来たそうです。
 この話を両親二人から聞かされた時は、なんだか感情移入してしまい、私もいつしかもらい泣きしていました。



 ストレプトマイシンは、1944年に米国のワックスマン(Waksman)らが放線菌Streptomyces griseusから最初の抗結核性抗生物質として抽出に成功したものです。
 日本では1951年から社会保険適用,同年10月より結核予防法による公費負担の対象となっています。私の母は、1950年前頃に発病していて、闇入手しなければ手に入らなかった時期と重なっている事情が読取れます。一方、父は母より数年後に発病しているので、1951年からの社会保険適用の第一号適用者の一人であったと思われます。
 更に詳しく見てみると、1943年にアメリカのラトガース大学(Rutgers University)のセルマン・ワクスマン(Selman Waksman)の研究室の卒業生であるアルバート・シャッツ(Albert Schatz)によって最初にストレプトマイシンが単離されました。
 実はこの単離成功には、以前に発見されていたフレミングによるペニシリンの発見が深く係っていたことが重要となります。ペニシリンの発見経緯は以下のような経緯で発見されたことは有名ですが、簡単にご説明致します。
 フレミングは他の皆と同じように実験に失敗して、いつも誰もが何の不思議にも思わず看過していた失敗、つまりシャーレ全面に培養した菌上に落下した青カビ周囲にだけ同心円状に菌が死滅している状態を、フレミングだけが疑問に思い分析を開始して、ペニシリンを発見したのです。
 そこでワックスマンらはこの手法を知り、更にシステマティックに分析ツールとして改良して今でも「阻止円法」として使用されている、シャーレ全面に対象となる菌類を培養して、その中心に薬剤をしみ込ませろ紙を置き、菌類の生育が阻止されて死滅すれば同心円状に透明なシャーレ部分が露見する手法を使い、多種類の薬剤で次々に実験していったのです。現在で言うところのスクリーニング法(アッセイ法)を開発した訳ですね。
 この手法で、更にアクチノマイシン、クラバシン、ストレプトスリシン、ネオマイシン、フラジシンカンジシジン、カンジジンなど数々の抗生物質を発見していきました。
 その後、ストレプトマイシン発見者としての詳細と名声がシャッツによって主張され、これは訴訟にまで発展しました。シャッツはストレプトマイシンの発見者ではありますが、ワクスマンの指導のもとストレプトマイシン研究を行うよう命じられていた卒業研究生にすぎず、ワクスマンの研究室の技術、装置、設備を使っていたことが論争の原因と言われていています。
 シャッツを1952年のノーベル賞受賞者に含めるべきという主張もありました。
 しかし委員会は、受賞理由はストレプトマイシン発見の功績だけでなく、発見につながった方法論や技術、および他の多くの抗生物質の発見を含めたものであるとして、この主張を退けました。
 この訴訟は、ワクスマンとシャッツがストレプトマイシンの共同発見者であるとみなすという公式判定が下り、和解により終息をみました。 このストレプトマイシンは、抗生物質の一つであり、化学式はC21H29O12 N7で、最初に発見されたアミノグリコシド類である放線菌の一種Streptomyces griseusに由来し、蛋白質合成を阻害することによりバクテリアの成長や代謝を停止させる効果があり、結核の治療に用いられた最初の抗生物質です。
 具体的には、バクテリアのリボソーム上の 23S rRNA に結合し、代謝を担うあらゆるタンパク質の合成、つまりリボソーム上でのポリペプチド鎖の合成の開始を阻害します。
 ヒトは真核生物であり、バクテリアと異なる構造のリボソームを持つため、選択的にバクテリアに効果を与えることができた訳です。すごいですねえ。



 話は両親のことに戻りますが、以上のような経緯で命をかろうじて取り留めた二人は病棟内で療養している間に知り合い、恋愛の末に結婚することになったことが、私の存在の始まりだったということになります。
 しかし、母の身体はまだ胸郭成形手術を終えて間もない身体であり、また母体としての免疫機能低下や母子感染の恐れ、そして何よりも体力が戻っていないことから、子供を産むことは難しい、諦めなさいと主治医から言われていたそうです。
 でも、どうしても子供が欲しかった両親は、何度も医師へ相談してやっと結婚後3年経過して、許可が降りたそうです。

 そうして、産まれて来たのが、何を隠そうこの私、八尋寛司なのです。
 未熟児で、1650グラムしかなく、泣き声も無く仮死状態でこの世に産まれ出たそうですが、背中を何回か叩かれると、大きな産声を上げたと聞いています。
 小学生の低学年頃までは、いつも一番のチビで、「前にナラエ」をすると自然に腰に両手を当てることが癖になっていたくらいですから、笑ってしまいますよね。
 今では、164センチの身長にまで大きくなり、同窓会では昔チビと言っていた悪友達と並んで一緒にビールを飲んで楽しんでいます。



 では、このようにして産まれて来た私は、何のために産まれて来たのだろう?とふと思い始めた時期がありました。
 それは、前職でありました大手電気メーカーの研究所で当時の研究所長に新規事業企画を命じられ、あれこれと様々な事業調査を継続する内に、何故かバイオ事業に手を付けて、いつしかバイオロボット、つまり薬剤の合成化合物を多数スクリーニングする自動化装置(通称、HTS装置;High-Throughput Screening)を国産初の装置として、たった一人から初めて企画・構想設計・開発・販売・サービスまで終えた時でした。
 お客様は、製薬企業の創薬研究部門の方々で、日夜新薬開発により患者さん達の病気を何とかして治したいと、必死に目を輝かせて研究活動を実施されていて、そこにフレミング、ワクスマン、シャッツなど、多くの先人研究者の方々の姿を、私が重ねて見たからなのでしょうか。
 これは、もしかしたらワクスマンが阻止円法を開発して、新しいスクリーニング法として抗生物質を発見したことと同じことを、私はHTS装置の開発を通じて行なっているのではないのだろうか。と、ふと思うようになっていきました。
 それからは、次の商品、更に次の商品と、研究者の方々や大学の先生方とお話をさせて頂きながら、研究支援をして患者さんへの新薬提供のお手伝いが出来ることに、本当に生き甲斐を感じるようになって行ったのです。
 もしかしたら、私は最初から医学系に進むのではなく、工学系へ進み、その後にこそバイオや医療系のお仕事に出会うべきだったように思えてならないのです。だって、私はワクスマンによる阻止円法利用によるストレプトマイシン開発が間に合わなかったら、この世には間違いなく存在して居なかった人間なのですから。
 ここに、私の存在価値と生き甲斐が在るのだ! と初めて意識して認識したのでした。

 これが、この第一話で是非ともお話しておきたい、私の仕事の原点であります。というよりも、私の人生そのものだと思って、今のお仕事、つまり医療や新薬開発の研究に取り組んでおられる方々を工学的な側面からご支援を差し上げ、その結果多くの病気で苦しんでおられる患者の方々、そしてそのご家族の方々へ、「生きる一筋の光明」を灯す手助けをさせて頂いております。
 大変ありがたいことに、そんな私の仕事や商品を使って研究をして下さる研究者や医療関係者の方々がおられ、存在意義が少しはあることが解ってまいりまして、勇気を持って、使命感を持って、邁進させて頂いているところです。



 以上、第一話は少々しみじみとした内容となりましたが、私の原点とも言うべき原風景をご説明することで、私自身や弊社の経営理念の意図するところを、多くの皆様へもお伝えできたのであれば、この上無い幸せです。どうか、同じ思いを持った方々がおられましたら、ご遠慮なく一度ご連絡なり、ご来社頂けましたら大歓迎させて頂きます。


 最後に、私には一方的に、かつ密かに憧れて尊敬している方がおられます。
 NHKの「プロジェクトX」で、バチスタ手術を医師生命を掛けて成功された、須磨久喜先生です。
  「医師は患者さんがおられ、必要とされるから存在する意義がある。だから、患者さんのために何が出来るかを常に考えておられる」先生でした。とても感激して、もう涙が止まりませんでした。こんなに凄い使命感と強い意思を持たれた先生がこの世の中におられるんだ!と思うと、もう嬉しくて嬉しくてたまらなくなり、また一人で感激の涙をボロボロと流していました。
 今、会社のメインテーブルには、須磨先生の写真をNHKのHPから勝手に取って来て、写真立てに入れて、毎日須磨先生に恥じない仕事や生き方をしているのか?と自分自身に真摯に問いかけては、反省しております。いつか、お目に掛かれる機会がきっと来ることを夢見て、仕事に精励致します。

 皆様も、きっと使命感を持って良い仕事をなされておられることと拝察致しますが、今回は恥ずかしながら、私自身の仕事感、使命感なりをお話申し上げました。
 もし、皆様の心の琴線に少しでも触れることが出来ましたら、幸せです。


     2008年 2月 5日            
                      STEMバイオメソッド株式会社   
                      代表取締役社長   八尋 寛司
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